義経年表
西暦 出来事
1159年 源義朝の九男として母・常磐御前との間に誕生。幼名は"牛若丸"。
父・義朝、平治の乱で謀反人となり敗死する。
1160年 常磐御前、子・義経らの助命を条件に、平清盛の妻になる。
1165年 鞍馬寺の稚児になる。
1174年 義経15歳、藤原秀衡を頼り、奥州平泉へ。
1180年 兄・頼朝が伊豆で挙兵(8月)。
黄瀬川(静岡清水町)で陣を張る頼朝の元に馳せ参じる。
1182年 大内満盛、宇佐八幡宮(豊前)より徳佐字丸山の地に宝清山(徳佐)八幡宮を勧請する。
1184年 宇治川の戦い(1月: 木曽義仲と戦う)、一ノ谷の戦い(2月)
静(静御前)を妾とする。
1185年 屋島の戦い(2月)、壇ノ浦の戦い(3月)
頼朝に無断で、後白河法皇より官位を受ける(4月)。
都を落ち西国を目指すも嵐のため、吉野へ移り、静と別れる。
1186年 静、母・磯禅師と共に京で頼朝の兵に捕縛、鎌倉へ移送(2月)。
頼朝の命により静、鶴岡八幡宮にて舞・うたを奉納(4月)。
静、義経の男子を出産。男子は由比ヶ浜に沈められる(閏7月)。
月- 静と母磯禅師は帰洛。
1187年 奥州へ逃げ延びる。庇護者の藤原秀衡死去。
1189年 衣川の戦い; 藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃。

「静御前姿図」
吉原真龍 作
 源義経と静御前との悲恋は、人々の心を揺さぶる物語として、いつの時代にも語り継がれている。それは、義経が時代を一気に駆け抜け、享年31歳の若さで、兄・頼朝の手により討ち取られた悲運の武将であること、そして歴史上から忽然と消えた静御前の生涯に由来する。
  そのため、この二人に関して日本各地に多くの伝説を残している。山口市阿東徳佐の地でも、古くから静御前が母・磯禅師と共に都を落ち、大内氏が治める阿東徳佐の地で、ひっそりと終焉を迎えたとの伝説が言い伝えられ、その墓所と思われる所に宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔が残されている。それらは、災害等で崩れ、地元の人々により幾度も積み直されている。
 江戸時代後期に、豊後出身の絵師・吉原真龍が当地に立ち寄り、静御前にまつわる言い伝えを耳にし、「静御前姿図」
を残している。
伝説 その後の静御前と磯禅師
宝篋印塔・五輪塔
-静御前・磯禅師・侍女の墓-

 京に戻った静御前は、義経の安否を気にとめながら、母と供に白拍子(※)として生活を送っていた。 1187年、義経が奥州平泉に滞在しているとの噂を耳に、義経の元へと旅立つが、幕府の厳しい監視と1189年4月に"義経死す"との悲報により、京へ戻った。
  その後、母・磯禅師と侍女と共に義経と過ごした思い出深い「壇ノ浦」へ、瀬戸内沿いを西下していき、長門領内で大内満盛の庇護を受ける。幕府からの厳しい目をさけるため、満盛が勧請した宝清山(徳佐)八幡宮近くの徳佐・片山地区で、笊笥(そうけ)庵に居住する。そのころ、京以外では行われなかったであろう雅楽【還城楽(げんじょうらく)、千秋楽、万才楽(まんざいらく)など】を伝え教えながら生活を送ったと考えられている。
 これらの雅楽にまつわる記述が、徳佐八幡宮の古文書である、1240年記載の「社規式事」に残され、さらに「当社之秘伝也」また「極秘」とも記されている。

※白拍子(しらびょうし)
 平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。また、これを歌い舞う遊女。(広辞苑第5版より)

雅楽と静御前
  雅楽は宮廷音楽で、それを学んだ人の中に、磯禅師・静御前・その侍女らがいたとの記録が残っている。また、磯禅師は、当時学問と舞楽に造詣が深かった廷臣・藤原道憲(後白河天皇の近臣)から白拍子を学んだとの記録もある。
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